番外編 Another Life
金ちゃん物語 U 肝臓がん 2006年10月17日私は金ちゃんと再会した。 金ちゃん物語はまだ終わっていないのだ。 金ちゃんが入院してきた。面と会うのは8年ぶり?カルテを見ると平成2年8月吐血、 胃切除術と記してあった。 金ちゃんが吐血で死にかけたのは、もう16年前の出来事だったのだ。 今回入院時の看護師の記載が傑作だ。 金ちゃん:「当分酒が飲めないからビールを飲んできた。病気のことは全部知っている。 妻はぼけているし、子供は遠くにいる。子供には入院したことは、知らせていない。」 看護師:「顔面紅潮。多弁。アルコール臭あり。飲酒のせいか、あるいはもともとの性格のためか。 言動要注意。」 私は思った。お酒のせいではなく、いつもの金ちゃんだから要注意しなくても大丈夫。 若い看護師はさぞかし驚いただろう。 大きな傷を顔にもち、人相も悪く、入院前に酒を飲んでくるなんて。 しかも肝臓がんなのに。 とにかく病室に向かう。ちょうど金ちゃんは朝の検査で採血の真っ最中で大騒ぎだ。 医師とナースが2人で金ちゃんをなだめていた。 金ちゃん:「痛いなー。人の体だと思って。針を何回もさして。ちゃんととってくれ。へたくそ!」 私:「金ちゃん、先生や看護師さんを困らせたらだめでしょう。じっとして!」 私の一言で金ちゃんの動きがぴたっと止まった。 金ちゃん:「だれだ?」 金ちゃんは視力が極度に悪い。しかも、片目は義眼である。 大体の輪郭はわかるようで、こちらをじっと見つめているが、私の顔は判別できない。 私:「私の声を忘れたの?のっじーです。」 金ちゃん:「あーのっじーさんだ。何でここにきてるの? いやいや、なんでわしがここにいることがわかった?」 私:「金ちゃんが入院することなんて、早耳の私はとっくに知ってました。」 久々の再会である。 私は8年前金ちゃんと病室で別れた。 その後1年間東京で勉強をして、看護専門学校の講師になった。 今は看護学生を連れて毎日病院に実習指導に行っている。 私は入院予定患者や手術予定の患者は、学生の受け持ち患者決定のためにいつも把握している。 そして、先週入院予定患者の欄に金ちゃんの名前を発見していたのだ。 金ちゃんは肝臓がんの再発で、治療のために入院してきている。 今回の治療はTAE(動脈塞栓療法)。 金ちゃんいわく3回目だそうだ。肝臓の癌を栄養する動脈に抗がん剤を入れたあと、 その動脈を塞いで、癌をやっつける処置のためである。 肝臓切除後の初回の再発時はPEIT(エタノール注入療法)だった。 あと2回TAEを2年おきぐらいに受けたそうだ。前回の治療から3年ぶりだと金ちゃんが言っていた。 数回の再発を経験している金ちゃんにとっては慣れたものだ。 今回の腫瘍の大きさはわずか1cm程度。うまくいけば治療後4〜5日で退院できる。 治療の選択は再発した肝臓がんの大きさと数と再発部位で決まる。 1cmで一個ということでTAEが選択されたのだろう。 1cmではちいさいのでPEITのように針をさすのは難しかったのであろうか。 肝臓がんは肝細胞そのものから癌が発生する肝細胞癌と 他の臓器から転移してくる転移性肝癌ある。 転移性肝癌はなかなか治療の手立てが難しくなる。 それは肝臓以外にもすでに癌細胞が広がっているので、肝臓だけの治療では どうにもならないからである。 肝臓は他の臓器と違い2重の血流支配を受けている。 ひとつは肝動脈、もうひとつは肝臓固有の門脈である。 消化器を通った血液は栄養を吸収して門脈を通じてすべて肝臓に流れ込む。 その栄養を代謝して身体に必要な成分にしたり、毒物や老廃物を排除したりするのが肝臓の役目。 消化管の血液はいったん肝臓に入るので、消化器の癌は血流に乗って肝臓に転移しやすい。 肝細胞癌は幸い他からとんできたものではないので、肝臓に限局している場合、 再発しても金ちゃんのように治療をつづけながら、元気で長生きができる可能性が大きい。 金ちゃんは72歳になっていた。でも、老人という感じはない。 私は職業柄、患者の顔色や皮膚を注意深く観察する。 特に金ちゃんはパジャマから出ている腕など、筋肉が良く発達しており皮膚の色つやも良い。 誰がこの人が癌なんて思うだろうか。私でさえ信じられない。 さて10月18日、金ちゃんはTAEを受けた。 そう、肝動脈にファルモルビシンを注入されたあと、その動脈は閉塞された。 家族は誰も来なかった。 というか、金ちゃんが呼ばなかったようだ。 私はTEAの翌日、さっそく金ちゃんの病室を訪れた。 弱り果てて熱に浮かされたかわいそうな金ちゃん・・・。 と思いきや、金ちゃんは座って朝ごはんに向かっていた。 眼が悪いのでいい加減にはしを使って食べていた。 「今回の治療はつらかった。やはり年のせいだろうか。すっかり弱ってしまった。」 とご飯をほおばりながら私に言うので、全く説得力がない。 私は朝食についていたふりかけをご飯にかけてあげながら言った。 私:「どこもつらそうに見えないわ。朝から座ってご飯食べているのに。病人にはとても見えないし。」 金ちゃん:「そうかい。」 私:「手術に比べたら、カにさされたぐらいでしょう。」 金ちゃん:「わはは、そうだな。あーたいくつだな。」 退屈なんて言葉は具合の悪い人の口から出る言葉ではない。本当におかしい人だ。 金ちゃん:「ところであんた、長いこと学校の先生してるけど、もう病院には帰らんのかい? もうお偉いさんだな。」 私:「もう7年も教員してるから病院に帰るよ。多分来年ぐらい。」 金ちゃん:「じゃあ、帰ったら師長さんだな。」 私:「そんなのなりたくない。病院に帰って、金ちゃんがいよいよ死ぬときは 私が面倒を見ないといけないから病院に帰ろうと思ってる。でも金ちゃんがあまり長生きしたら、 私が定年退職になってしまうから、いい加減なときに死なないと、みてあげられないよ。」 金ちゃん:「わはは、もうワシは入院しないよ。」 金ちゃんは死ぬ気は全くないようだ。 金ちゃんは入院のとき酒を飲んでいたらしいのでどうしたのか聞いてみた。 金ちゃん:「若い頃は結構飲んだけど、肝臓がんになってからぜんぜんほしくなくなって飲んでない。 でも外来でF先生が飲めって言うから、仕方なく缶ビールを1本ぐらい飲むようにしている。」 金ちゃんは医者に勧められて仕方なく酒を飲んでいるのだ。 それもまた変な話だが、ほしくもない酒を飲んで入院してくるのも、結局わけは聞かなかったが、 金ちゃんらしいのか。 そして金ちゃんは10月24日に退院した。 朝、金ちゃんに「また会うのだから、見送りには行かないけど。元気でね。」とあっさりと別れた。 金ちゃんはがさがさとナイロン袋から携帯ストラップをたくさん出してきて、 「あんたと、あんたの学生にもあげてちょうだい。」とくれた。 多分韓国のお土産か、ちっちゃい赤唐辛子がぶら下がった携帯ストラップで、 決しておしゃれなものではない。 苦笑しながら、でもうれしくありがたくいただいた。 肝臓がんのお守りとして家宝にしようか。 金ちゃん物語は私の人生にまだまだ絡んできそうな予感がする。 本当に金ちゃんの末期の水を取ることができるのか、なぞではある。 当分そのご報告はできそうにないようだ。 |
おわり |